神渡先生
先生との出会いのきっかけとなったのはこの本でした。
どういういきさつでこの本を手に取ったのか今では分からないが、多分そのことにはたいした意味はないのだと思う。
とにかく、あるとき、それは多分2015年頃、私はこの本を読んでいた。
すごい言葉にたくさん出会い、魂を捕まれて揺さぶられているような衝撃だった。
そんな時、今野華都子先生の古事記塾でご一緒していた美幸さんから「照隅会」のことを教えて頂いた。
2015年の2月だったと思う。
その日は渡辺俊幸さんがゲストで映画『風に立つライオン』の話があったと思う。
神渡先生の話は、ヒマラヤでの映像の紹介。
私にとっては前後の脈略もなく語られている話ではあったが、心身の奥底から惹かれるものがあり、そこから先生との交流は始まった。
先生がお亡くなりになったと聞いてから今日で5日。
何もできないまま日ばかり過ぎてゆくなか、今日は、出会いのきっかけとなったこの本から、付箋の付いている箇所を抜き書きしてみたくなった。
人間が修養して人間となるのは、何も人間のためだけではない。心を与えられ、霊性を与えられている人間が真に人間となることによって、実は万物一切が生かされてくるのだ。人間の体に取り込まれている人間の生命を維持形成し、あるいは天地自然を形成して人間の活動する環境を作る万物は、人間によって有用性を引き出されなければ、例えばただの路傍の石でしかない。彼らが生かされるか否かは、ひとえに人間にかかっている。「天地の為に心を立てる」とはそういうことではなかろうか。
自分が目覚め、有用な人生を歩みだすということは、実はかかわっている人すべてに有益なこととして跳ね返ってくる。自分一人のための修養ではないのだ。
これは「はじめに」からの引用。
次の付箋のところをめくり読んでいる内に、次々に書き写したい文章がつづき、もう書き写せないと諦める。あるゆる文に言葉に行間に、先生の感動があふれている。
だまって再読することにします。
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